ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

矛盾人間の日記

 昨日の三時まで指導案を書いて、寝て、十五時に起きた。十二時間睡眠の果てに残ったのは、つらさと無気力感。当たり前だ。やりたくないことをやっているのだから。

 ではなぜ、やりたくもないのに教育実習に行くのか?それは今さら断ることによって自分がダメなやつだと思われるのが嫌だからだ。自分の価値を否定されるのが嫌だ。自分の能力を証明したい。裏をかえせば、教育実習を(上手に)完遂することで自分の能力が証明されると思っている。だから、それは教育実習をやりたい、ということになるんじゃないかと思う。

 けれど、体は嫌がっている。本当にやりたくない。生徒との関係なんてめんどくさいし、教えるなんて向いてないし目上の人間の凄さもわからない。だから、やりたくない。

 ぼくはやりたい、と同時にやりたくない。これは矛盾だ。

 昨日も書いたようにぼくは矛盾するから生きていられる。死にたい。けれど死にたくない。そういう矛盾がある。死ぬための行動をしたいのに行動ができないから生きている。であれば、命を守るという点においては矛盾はいいことだ。

 それに対して「ほんとうにやりたいならどんなに辛くてもやり遂げるはずだ」とか「結局死ぬ勇気なんてないんだろ、お前は構ってほしいだけだ」とか言う人間は一貫性のある人なんだろう。それは素晴らしいんだけど、彼らは矛盾の良い点には気づいてない。もしくは、自分のなかの矛盾を隠そうとしてる。ぼくは、矛盾を隠しながら生きているので、まわりの人には「真面目」とか、「良い人」だと言われる。この世界では一貫した人間のことを真面目と評する風習があるらしく、しかしそういう人に与えられる二つ目の評価は、「面白みがない」だ。

 ぼくの体は面白くないことが耐えられない。こんなもんじゃないと思いながら常に他より、昨日より一歩でも多くの成長を求めてる。最強の生真面目人間だ。満足を知らない。野性的だと言える。

 けれど頭はめちゃくちゃ理性的で、たとえつまらなくても手放したら責任感がないやつだと言われるんじゃないか、とか、無能だと思われるんじゃないか、みたいな、とにかく人のことを考えるヤツだ。憎めないけど、すごく締め付けが厳しい。でも体にその要求をこなすだけのエネルギーがあることを知ってるから、支配しようとする。

 理性的な頭と野性的な体の矛盾がぼくを支えている。うまく共同戦線を張れたら、体の縦横無尽な動きを発揮しつつ頭が求める承認を得られるよううまーく立ち回れるけど、基本的には矛盾して、いがみ合ってるから心はもたない。死にたくなる。

 だからぼくは矛盾によって死にたくなり、矛盾によって生きながらえてる。これもまたひとつの矛盾だ。真面目人間で野生人間で矛盾人間だ。

 という面白い性質を知った。ぼくは何をどんなにやっても満足できないのだから、とりあえず60%のものでも完成させるのが上達の近道だ。行動し続けろ。という理屈は正しい。全く正しい。正しいけど動けないというのもまた、矛盾人間の特徴で、だからこそ愛らしいんだ。

実習と死なないための日記

 ぼくが喋ってることはどうにもまとまらなくて、誰にも通じない。

 今日は教育実習の打ち合わせで学校へ行った。ぼくは学校に対して複雑な気持ちがあって、学校は単純に嫌いなのだけど、行ってよかったという気持ちも数%くらいはあり、その狭間で、やっぱり自分に教えることなんて何もないなと思いつつ、あくまで自分の、使わない免許のために行くのだ。

 それは学校のためでも将来のためでも自分のためでもなく、言うなら自分の都合のためで、つまりぼくは誰にも貢献していないし自分でもやりたくないので、そういうのを世間では孤独と言うのだろうと思う。

 実習生として学校に行くからには何かをしなければいけない。具体的には授業を。だから、せめて学校が嫌いにならないような授業をやりたいのだけど、そう考えるとどうすれば良いのか分からず、授業はまとまらなくなる。いや、こう言うとまるでぼくがいい人かのように感じるけど、実際は考えたくない、やりたくない、という雰囲気が滲み出てしまって、うまくいかないんだろう。


 ぼくは死にたくなった。

 

自分が孤独であることの絶望と(誰も、やる気のない奴の味方なんていないんだ。)、自分がうまくやれるか、人から悪く思われないかという不安のためだ。

 


 突発的になんの準備もなくスイッチを切るかのように突然死のうと思った瞬間に死ねたら(死んでしまったら)、特別な苦労はないのだけど、残念なことに僕らは死ぬのにだって計画がいる。

 胸をナイフで突き刺して死ぬとして、どのくらいの刃渡りのものを使おうか、とか、飛び降りて高さが足りず中途半端に苦しんだらどうしようとか、次から次へと疑問や不安が湧いてくる。死ぬのだって楽じゃない。死んだら楽になれるかもしれないけど、人間思いのほか頑丈にできていて、死ぬ手続きを完遂するのも煩雑で体力がいる。

 そのおかげで毎年何万人もの人が助かってる。自慢するわけじゃないけど、僕もその一人だと思う。その一方で煩雑な手続きをやり遂げて、実際に死んでしまう人もいる。非常に悲しい。それほどに絶望や不安は根が深く、大きく、強い。

  くり返すけど、仮に死ぬと決めてもそれで一気に楽になるわけじゃない。死ぬ際にも不安や絶望がついて回る。

 死にたい原因のつらさと、死ぬ際の不安あ絶望のあいだで板挟みになるのも非常につらい。とてつもなくつらい。

 それでも、それは非常に、結果的には良いことだとも思う。何にもやりたくない人がふらっと行動に起こせるほど、死ぬのは簡単じゃなく、その簡単じゃなさにぼくの命は救われてきたからだ。

僕のことばは人に通じない。考えて考えて、もうはち切れるくらい考えて、考えすぎるからまとまらないのに、人には考えなしのバカだと思われていて、それも悲しい。

 行動に起こせないことの辛さや苦しみを「やる気を出せ」のひとことで片付けられてしまうのも非常に不服だ。

 でも簡単に死ねなくてよかった。そういう人は、この世界にたくさん住んでるだろう。きっと。

 人から優しくされると苦しかったり、心配されると申し訳なかったりする。この矛盾めいた感情に罪悪感を持ったりする。

「ああ、なんてわたしは素直じゃないんだろう。」

「人の善意を受け取れないなんて、どうしてこんなにダメなんだろう。」

 坂口恭平は、反省するのをストップしてみよう、と言う。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74319

二日酔いの日記

 

 

 

 酒を飲んだ翌日の朝のホームは、飛び降りたくなる。目を閉じ、音楽を聴く。生ぬるい空気に包まれた自分の体にグルーブが流れ込み、アルコールと睡眠不足で混濁した頭が自然と前に傾く。目を開ける。こわいのだ。自分のからだは白線のうちがわにあるのか。

 はじめて駅のホームに飛び降りる妄想をしたのはたしか5歳くらいの頃で、あれは西武線池袋駅だったと思う。行き止まりのホームが向かい合って電車を受け入れる。その電車が去っていったあとに残る空間。その、ホームひとつ分、線路ひとつ分の空間。そこを跳べるんじゃないかと思う。この妄想は、ビルから飛び降りムササビのように滑空していく夢を身始めたころに思い浮かべるようになった。ぼくは落ちる。自らの意思で。けれども落ちないのだ。

 昨日は高校の後輩たちと打ち合わせをした。打ち合わせと言う名前の飲み会。くだ巻き。くだをまく大学生男子の集会なんて、ゾッとする。ルサンチマンと自己愛の巣窟じゃないか。でも、ぼくはそのなかにひたりにいく。自分がとてつもなく大きな存在になったかのような気分で、酒を飲み、意見を交わし、悪口を言い、眠くなり、それは非常に自我に反する行為だ。ほとんど思考をしないでぼくらはしゃべり続ける。

 そこから終電を逃し、友人の家に泊まり、朝。ぼくは駅のホームで跳び降りる妄想をはじめる。予想したとおり、ぼくは落ちなかった。電車は成功裏にホームへ滑り込み、ぼくは安心して都会へ向かう満員電車に乗ったのだ。

 いつまでも音楽をやってるなんて子供だ。愛すべき子供か、ただのバカだ。高校時代に、自分の所属していた部活動が学校の教師や生徒たちから掃き溜めのような扱いを受けていたらしいと聞いた。その学校に行かなくてはいけない。ぼくは教師になんてなれないというのに。

 二つの空があって、ぼくには一つしか見えない。赤い空、青い空はいつの間にか見えなくなったが、気づけば周りの人間は青い空を見ている。ぼくは盲目のように歩いた。おかあさん、赤い空が見えるよ、嘘じゃないんだ。

ほんとになんもしたくない時の日記

 朝、無理やり起きる。昨日の電話の後遺症でまだ眠いが、今日は伴奏者に楽譜を渡しに学校へ行かなきゃならない。

 実のところまだ渡す楽譜を用意できてない。伴奏者に渡す楽譜は、自分が持つ原本のコピーになる。伴奏者に楽譜を渡すときはA3でプリントできるような大きなプリンターで学費をコピーして、さらにテープを使って製本して渡すことになるけど、ぼくはコピーと製本をやっていないから、早く起きた。早く学校へ行ってやってしまえばいい。渡す瞬間までに出来上がってればいいのだ。ぼくにはこういういいかげんなところがあって、それでもなんだかんだうまく行くから反省しないようになった。

 電車のなかで本を読む。中島義道保坂和志。となりの席のおばさんが真剣な顔でスマートフォンを握ってる。背中のところにバッグを置いて、その前に座っているので背もたれには寄り掛からず、背筋がしっかりと伸びている。おばさんの耳とスマートフォンはアップルの純正のイヤホンによって接続されていて、そこからは男性の高音域の声とドラムの音が聞こえてくる。その全体的な佇まいと音漏れのすべてを含めてぼくはそのおばさんが気に入らなかったんだけど、そんなことは全く関係なく電車は進むし、ぼくはわざわざ席を立とうとは思わず、どこかで喜びがあり悲しみがあり、世界は一秒ずつ進行しているんだなあと、そういってしまえば終わりのようなことを考えている。

 最近は本をはやく読むことにこだわってる。速さにこだわるというのは下世話な価値観かもしれないのだけれど、それでも自分なりに理由があって、その理由とは、自分の思考を差し挟む余地なく本が読みたいということと、本を部分ではなく全体の複雑な機構として読みたいということ、そしてその複雑な機構の関わりのなかでしか、物事を「わかる」なんてできないんじゃないか、という疑問を持っていること。

 いままで、本をはやく読もうとすることはなんというか、考えなしで、見落としも多いし...などと考えていたから速読をあまりしなかった。はやく、確かな情報を!みたいな感じが、大げさだけど、自分の嫌いな社会のあり方とつながっているような感じがして、どうにも高潔じゃないと敬遠してた。

 だけど、よく考えてみるとゆっくり読んだからといって理解が深まるわけでもなければ早まるわけでもなく、むしろ思考が余計なツッコミをいれることで作者が書こうとしていることと自分が読もうとしていることが離れていくんじゃないかと思ってしまい、それならと思ってはやく読むのを試してみることにした。

 これが、自分の思考を差し挟まずよむということだ。あとの二つの理由は長くなるのでいつか書くだろうけど、こんな感じでとにかくはやく読んでる。効果のほどはいずれ検証してみたい。はやく数をこなすのが有効だったらいいな。人間とはそんな単純なものかと悲しくなるかもしれないけど、さいきん人間はかなり単純なのでは?と疑ってる。

 『何よりもまず読むこと。そして次に簡単に答えを出そうとしないでそれをプールしておくこと。』(保坂和志著 『いつまでも考える、ひたすら考える』草思社文庫)

 楽譜を渡して帰宅。学内オーディションの曲。やるのかもわからない演奏会のオーディションを受けるのだけど、とりあえず負けないようにしたい。月並みだけど、自分とのたたかい。伴奏者を付き合わせているので、数的有利がある。

 帰宅して昼寝。起きる。なーんもしたくない。ほんとになーんもしたくない。

眠れない夜からはじまる一日の日記

 ブコウスキーの小説を読んで、自分の小説を読んだ。ブコウスキーの小説は笑っちゃったり妙な気分になったりしたんだけどぼくのはあんまり面白くなかった。

 そんなもんだろうとおもって、AVを見た。午前一時のこと。AVは笑える。真剣なものほど滑稽だ。どうしてだろう。ぼくはマジメな顔をしてふざけたことを言う人が好きだ。最近だとカズレーザーとか、かまいたちの山内とか。ぼくの小説はマジメだけど、中途半端にマジメで滑稽になりきってない。というか、マジメに滑稽をやれてない感じがする。滑稽に見えるくらいマジメならいいけど。

 『私も39歳になった。ゲリラ戦士としての自分の将来を考えねばならぬ年齢に、いやおうなく近づいている。今のところ「完全」である。』

(チェ・ゲバラ著 真木嘉徳訳 『ゲバラ日記』中公文庫)

 「この世界はつまんねぇよなぁ」と思う。その思いを忘れていた気がする。いや忘れてなんかいない。ふとした時に思い出す。「社会はつらいことばっかりだ」みたいなことをおもって絶望する昨日の午後三時、ぼくは不良にもなれず、かといって優等生にもなれないまま生きてきた。

 自分や世界はもっと輝いているはずで、その証拠にむかしのぼくたち、例えば幼稚園時代とか小学校時代とか、言い知れぬ幸福を味わっていたはずだ。

 ぼくはその謎の幸福を感じていた時代をエデンの園のようだと思う。第二次性徴期とともに僕らは他者の視線を内面化することでエデンの園を失ったのではないか。まあ、こんなのは既存の図式に当てはめただけの言葉遊びにすぎない。

 虐待を受けた子どもや、いじめを受けた子どもは不幸だ。しかし僕らは幸福を知っている。おそらく、虐待を受けている子どもだって幸福を知っている。その幸福の知識はきっとアプリオリに人間に内面化されていて、それはきっと胎内記憶なのか、もしくは魂のようなものに宿るのか、それはわからないけど、少なくとも幸福や安寧を僕らは生まれたときから知っているはずだ。

 では、言い知れぬ幸福をぼくらはどう扱うのだろうか。失ってしまう。意識的に捨てるのではない。失ってしまった輝きがそこにはある。世界は本質的にはもとから輝いていた、はずだ。生まれてから成長する過程でそれをきっと失う。だから僕らは生きててこんなにもつらい。

 深夜三時に、至ってマジメに考えた。笑ってもらえたら最高だ。

 朝6時まで眠れず、宮台真司著『終わりなき日常を生きろ』を読んでいた。

 それから学校に行って、9時。出し忘れていた書類を提出する。寝てないから、学校で寝る。坂口恭平の師匠だという路上生活者の人が言っていた、公園や土地を使わせてもらう感覚。

 学校のソファーは硬めのベッドのように少しだけスプリングがあって眠りやすい。

 12:30に起きる。学校で目が覚める。食堂に行って人を探す。誰もいない。ぼくは用事があって帰れないので、誰かがいないといやだ。一人はいやだった。

 図書館に行き、楽譜を借りる。もう一回寝ようかなあ、と思うと友達を見つけたから、偶然を装って近づく。

 話をして、そしたら友達が集まってくる。ぼくは集まってきた別の友達と一緒に勉強することにする。人と人の間を漂っている、ピンポン玉みたいなわたし。

 コミュニケーション少し、うまくなったかな。

 最果タヒのインタビューを聞いた。わかりやすい言葉に寄らないでいいんだって、思えるかな。

 詩は読んだ瞬間に起こる。そんな感じがする。読んだ人間が関わることで初めて完結する文章。わかんないことから。相手がどうとってくれてもいい。わかりやすくないことが重要だっていうのは、素敵だな、でも、と思う。

まよい、くるしく、はずかしい日の日記

  bloodthirsty butchers というバンドの『kocorono』というアルバムがある。

  二月から十二月までの月日を題された曲たちが並ぶアルバムだ。大人になんか解ってたまるか、と歌う四月、黄昏の十月、迷いながら疾走する十二月の東京。夏には夏の歌があり冬には冬の歌がある。このアルバムはロック史上にのこる大名盤として伝わっている。1996年リリース。ぼくが生まれる二年前。

 月日の記録が日記なら、『kocorono』は日記的なアルバムだなあとおもって、ふと聞いてみた。八月。このアルバムのなかでも人気の高い曲。

 「人々が過ぎる/ぼくは見過ごす/この風はどっから 吹いてくるのか/八月の空は とても厳しくて/突き刺す日差しで 君を見失い/迷路に入り込む」

 どこかに向かっているのか、それともどこにも向かっていないのかわからないけど、とにかく歩きつづけ、走りつづけ、そして迷路に入り込む男のモチーフ。繰り返されるモチーフ。

 ぼくは今日、教職科目のやらなきゃいけないことに手をつけて、ほとんど解決した。やる気がなくて、無視していた。やる気がないなんて、誰にもいえないけど。

 歌手になりたい、作家になりたい、そのためには実力と、売る力。それがなくちゃいけない、それはわかる。ゴールドラット博士というイスラエル人物理学者が「制約理論」という理屈を考えた。

 経営、マネジメント業界で使われる理論で、簡単に言うと、課題の根本原因を見つけだし、クリティカルに問題をつぶしていくことで最小の手間で最大の結果を得ようという理論だ。

 制約理論ではものごとを有意性、継続性、展開性の三段階に分ける。

 まず、目的に対して意味があることをする。次に、意味があることを継続できるようにする。最後にそれを広げていく、という三段階だ。

 この中のどこかに問題があると、その企業なり個人は目的を果たすことができない。この問題のある部分をボトルネックとか言うらしい。

 ぼくは自分の目的にとって有意なことをできているだろうか、継続できるのだろうか、展開は、まだなかなかできない。

  というように後ろ向きなことを考えていた一日だった。

 「はずかしくて むねくるしく/はずかしくて 声も出せない/はずかしくて 顔も見れず/はずかしくて ウソもつけず」

 九月の歌詞。

 はずかしいなあ。

 他人は他人の領分でベストを尽くしており、それを認めて尊敬していけば、人に好かれるなんて話を聞いた。人に好かれたいと思う。

 ぼくは迷いながらもまた今日も生きていた。このままいけば明日もきっと生きるだろう。明日はもっと歌をうたおう。明日の夜はレッスンがある。きょうは高い声を全く危なくない方法で叫べるようになった。毎日進んでいる。ある部分では、止まっている。それでいい。ある部分では、後退していく。それが生命だ。ぼくは生命だ。

展覧会と性欲と、絵画の一回性と空についての日記

 なにもないところから歌を始めるように、なにもないところから文章を書きはじめよう。

 今日は神保町で友達とあそんだ。ピーター・ドイグ展をみて、それから古着をみて、パスタを食べ、カフェでゆっくりと話した。ぼくは友達が相手でも性欲が湧く。同性にも場合によっては湧くかもしれない。性欲と、近づきたいという気持ちはほとんど一緒で、だから、人との距離が異常にちかい。

 ぼくは文章を書きながら、考えたいことを考えてる。自分が考えたいことの輪郭が掴めれば、言葉をつかい思考を展開していくことになるので、文章の道標はできる。

 このあいだ、とある大学のアンケートに答えた。心理学のアンケートで、恋愛観を問う、というようなものだった。

 非常に答えづらい文章で、たとえば、「あなたは自分が誰かのことを愛するほど、その相手は自分のことを愛してくれないことに不満を持つひとですか?」みたいな聞き方をしてくる。答えづらいけど、答えた。胸がいたかったから。

 「自分が誰かのことを好きになるほど、相手は自分から離れていくとおもいますか?」という質問がいたかったから。

 まあ日記とはこんなメンヘラみたいなわかってほしい系文章を書くところではない。

 ピーター・ドイグが展覧会の絵の配置を空間全体の色を見て決めていた、という話を聞いたとき、空間とは、活動し、見る時系列を含んだぜんたいであるので、空間を考えるとは時間芸術的、つまり音楽的な考え方だなと感じた。

 そこでは音楽のアルバムの曲順のように、どのような順番でその絵が観覧者の網膜に飛び込むかということが問題になっている。

 ピーター・ドイグはいまも生きている作家だ。つまりは現代の作家で、複製されることを前提に芸術活動をしている作家だ。

 複製された絵画の一回性、オリジナリティはどこにあるのか、とおそらくいろんな人が考えてきただろう。絵画の一回性についても考えた。僕は、それはあまねくすべての瞬間にあると思う。

 ぼくらの感覚器官は、外部と、ぼくらの認識との間にある差異を感知するセンサーか、壁のようになっている。

 ぼくらの認識は自分の体調やセンサーの(網膜なら網膜の)性質によって異なった反応を見せる。ぼくの見ている赤色は誰かの見る青色かもしれない。酷く単純なクオリアの理解だけど、そうだとするなら、ぼくらの体が一瞬一瞬変わり続けている以上、同じ認識は二度とあり得ず、次の瞬間見た絵はさっき見ていた絵と違う絵であると言えるかもしれない。

 また、絵の側や会場のパラメーターも変数として存在する。珍しく借りた音声ガイドによると、ピーター・ドイグ展の照明はLED電球らしい。ハロゲンとは違い、光が直線的に降りてくるのだという。

 認識のなかで絵画は揺れ動く。絵画の「物自体」もまたさまざまな変数で揺れ動く。おそろしいほどに無限の変化を世界は見せてくれる。それを今日まで忘れていた。同じ空や同じ水は一瞬たりともなく、また一瞬たりとも同じでない水や空はどれだけ変わっても水や空であり続ける。

 だとすれば、死んだとしても居続ける、という命題は、論理学的には破綻しているが、現実をみるかぎり成立するようにみえる。『君がいないことは/君がいることだな』とサニーデイ・サービスは歌う。この理屈だってストン、と受け入れられる。

 そしてこの論理を超越した存在の両義性は仏教の「空」の思想とも通じる。

 ゆく川の流れは絶えずして、というやつだ。ぼくは、頭でっかちなおとこだ。