ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

まよい、くるしく、はずかしい日の日記

  bloodthirsty butchers というバンドの『kocorono』というアルバムがある。

  二月から十二月までの月日を題された曲たちが並ぶアルバムだ。大人になんか解ってたまるか、と歌う四月、黄昏の十月、迷いながら疾走する十二月の東京。夏には夏の歌があり冬には冬の歌がある。このアルバムはロック史上にのこる大名盤として伝わっている。1996年リリース。ぼくが生まれる二年前。

 月日の記録が日記なら、『kocorono』は日記的なアルバムだなあとおもって、ふと聞いてみた。八月。このアルバムのなかでも人気の高い曲。

 「人々が過ぎる/ぼくは見過ごす/この風はどっから 吹いてくるのか/八月の空は とても厳しくて/突き刺す日差しで 君を見失い/迷路に入り込む」

 どこかに向かっているのか、それともどこにも向かっていないのかわからないけど、とにかく歩きつづけ、走りつづけ、そして迷路に入り込む男のモチーフ。繰り返されるモチーフ。

 ぼくは今日、教職科目のやらなきゃいけないことに手をつけて、ほとんど解決した。やる気がなくて、無視していた。やる気がないなんて、誰にもいえないけど。

 歌手になりたい、作家になりたい、そのためには実力と、売る力。それがなくちゃいけない、それはわかる。ゴールドラット博士というイスラエル人物理学者が「制約理論」という理屈を考えた。

 経営、マネジメント業界で使われる理論で、簡単に言うと、課題の根本原因を見つけだし、クリティカルに問題をつぶしていくことで最小の手間で最大の結果を得ようという理論だ。

 制約理論ではものごとを有意性、継続性、展開性の三段階に分ける。

 まず、目的に対して意味があることをする。次に、意味があることを継続できるようにする。最後にそれを広げていく、という三段階だ。

 この中のどこかに問題があると、その企業なり個人は目的を果たすことができない。この問題のある部分をボトルネックとか言うらしい。

 ぼくは自分の目的にとって有意なことをできているだろうか、継続できるのだろうか、展開は、まだなかなかできない。

  というように後ろ向きなことを考えていた一日だった。

 「はずかしくて むねくるしく/はずかしくて 声も出せない/はずかしくて 顔も見れず/はずかしくて ウソもつけず」

 九月の歌詞。

 はずかしいなあ。

 他人は他人の領分でベストを尽くしており、それを認めて尊敬していけば、人に好かれるなんて話を聞いた。人に好かれたいと思う。

 ぼくは迷いながらもまた今日も生きていた。このままいけば明日もきっと生きるだろう。明日はもっと歌をうたおう。明日の夜はレッスンがある。きょうは高い声を全く危なくない方法で叫べるようになった。毎日進んでいる。ある部分では、止まっている。それでいい。ある部分では、後退していく。それが生命だ。ぼくは生命だ。