ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

漠然とした不安の日記

 落ちているセミの羽と枯れ葉の違いが見分けられない季節になってきた。

 昨日買えなかったモバイルバッテリーを買って、これからヴィットリオ・グリゴーロのチケットの支払いをする。

 11月28日土曜日、サントリーホール。学生席がまだ残っていたから、学生は行ったほうがいい。世界的なパフォーマーの舞台は、例えジャンルが違っていても絶対に楽しいからね。新自由主義的な言い方をすれば、あらたな発見があるし成長できる。そんなものは実際なくてもいいんだけどね。発見や成長や、楽しみを求めるひとはぜひ。

 マスクをしろ、とは言われるが、マスクが必要なほどの人混みはあまりない。

 電車、会社、学校、何らかの会場であれば必要かもしれないけど、街を歩くぶんには必要ない。でも街ですれ違うひとはみんなマスクをしている。ぼくもしてる。誰もいない路地裏で、10メートルの距離を開けて、マスクをした男二人がすれちがう。

 セミが死んでいるのをよく見る。やっぱる造形はキモチワルイ。でもぼくらは毎年、このキモチワルイ奴の声に包まれて生活しているわけで、セミはキモチワルイし、セミの声も目の前で鳴くのを見てたらやっぱりキモチワルイのだけど、公園とかで大合唱に包まれてしまうと自然という感じがして許せる。それどころか風情を感じたりもする。

 坂口恭平の個展を見に行った。

 家に帰るまでの間に、メディアで出会う人間と実際に出会う人間の違いについて考えた。

 それから帰宅して、歌を歌うが、うまくいかない。体の具合が如実に現れるのだ。ダンベルの重量を少し重くすると、そのぶん筋肉が増え、その筋肉の量に応じて呼気圧と声門下圧のバランスを考えなければいけない。もっと器用になれるのかもしれないけど、今は地道にやらないとうまくいかないし、地道にやってもうまくいかない。

 漠然とした不安から逃れるためには忘れるか眠るかしかない。宮台真司は、人間が変わるための行動を起こすためには、強制か、限りなく大きな動機付けが必要だと言っていた。動機付けはとてもむずかしい。すごいエネルギーが必要だ。しかも、なんだって手をつけると欲望と不安が出てきて、どうしようもなくなる。何かをしつつ、欲望と不安に飲み込まれない方法を探しつつ、今日も一歩ずついろんなことが上手くなっていく。上手くなるたびに不安も増えていく。