ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

ほんとになんもしたくない時の日記

 朝、無理やり起きる。昨日の電話の後遺症でまだ眠いが、今日は伴奏者に楽譜を渡しに学校へ行かなきゃならない。

 実のところまだ渡す楽譜を用意できてない。伴奏者に渡す楽譜は、自分が持つ原本のコピーになる。伴奏者に楽譜を渡すときはA3でプリントできるような大きなプリンターで学費をコピーして、さらにテープを使って製本して渡すことになるけど、ぼくはコピーと製本をやっていないから、早く起きた。早く学校へ行ってやってしまえばいい。渡す瞬間までに出来上がってればいいのだ。ぼくにはこういういいかげんなところがあって、それでもなんだかんだうまく行くから反省しないようになった。

 電車のなかで本を読む。中島義道保坂和志。となりの席のおばさんが真剣な顔でスマートフォンを握ってる。背中のところにバッグを置いて、その前に座っているので背もたれには寄り掛からず、背筋がしっかりと伸びている。おばさんの耳とスマートフォンはアップルの純正のイヤホンによって接続されていて、そこからは男性の高音域の声とドラムの音が聞こえてくる。その全体的な佇まいと音漏れのすべてを含めてぼくはそのおばさんが気に入らなかったんだけど、そんなことは全く関係なく電車は進むし、ぼくはわざわざ席を立とうとは思わず、どこかで喜びがあり悲しみがあり、世界は一秒ずつ進行しているんだなあと、そういってしまえば終わりのようなことを考えている。

 最近は本をはやく読むことにこだわってる。速さにこだわるというのは下世話な価値観かもしれないのだけれど、それでも自分なりに理由があって、その理由とは、自分の思考を差し挟む余地なく本が読みたいということと、本を部分ではなく全体の複雑な機構として読みたいということ、そしてその複雑な機構の関わりのなかでしか、物事を「わかる」なんてできないんじゃないか、という疑問を持っていること。

 いままで、本をはやく読もうとすることはなんというか、考えなしで、見落としも多いし...などと考えていたから速読をあまりしなかった。はやく、確かな情報を!みたいな感じが、大げさだけど、自分の嫌いな社会のあり方とつながっているような感じがして、どうにも高潔じゃないと敬遠してた。

 だけど、よく考えてみるとゆっくり読んだからといって理解が深まるわけでもなければ早まるわけでもなく、むしろ思考が余計なツッコミをいれることで作者が書こうとしていることと自分が読もうとしていることが離れていくんじゃないかと思ってしまい、それならと思ってはやく読むのを試してみることにした。

 これが、自分の思考を差し挟まずよむということだ。あとの二つの理由は長くなるのでいつか書くだろうけど、こんな感じでとにかくはやく読んでる。効果のほどはいずれ検証してみたい。はやく数をこなすのが有効だったらいいな。人間とはそんな単純なものかと悲しくなるかもしれないけど、さいきん人間はかなり単純なのでは?と疑ってる。

 『何よりもまず読むこと。そして次に簡単に答えを出そうとしないでそれをプールしておくこと。』(保坂和志著 『いつまでも考える、ひたすら考える』草思社文庫)

 楽譜を渡して帰宅。学内オーディションの曲。やるのかもわからない演奏会のオーディションを受けるのだけど、とりあえず負けないようにしたい。月並みだけど、自分とのたたかい。伴奏者を付き合わせているので、数的有利がある。

 帰宅して昼寝。起きる。なーんもしたくない。ほんとになーんもしたくない。