ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

実習と死なないための日記

 ぼくが喋ってることはどうにもまとまらなくて、誰にも通じない。

 今日は教育実習の打ち合わせで学校へ行った。ぼくは学校に対して複雑な気持ちがあって、学校は単純に嫌いなのだけど、行ってよかったという気持ちも数%くらいはあり、その狭間で、やっぱり自分に教えることなんて何もないなと思いつつ、あくまで自分の、使わない免許のために行くのだ。

 それは学校のためでも将来のためでも自分のためでもなく、言うなら自分の都合のためで、つまりぼくは誰にも貢献していないし自分でもやりたくないので、そういうのを世間では孤独と言うのだろうと思う。

 実習生として学校に行くからには何かをしなければいけない。具体的には授業を。だから、せめて学校が嫌いにならないような授業をやりたいのだけど、そう考えるとどうすれば良いのか分からず、授業はまとまらなくなる。いや、こう言うとまるでぼくがいい人かのように感じるけど、実際は考えたくない、やりたくない、という雰囲気が滲み出てしまって、うまくいかないんだろう。


 ぼくは死にたくなった。

 

自分が孤独であることの絶望と(誰も、やる気のない奴の味方なんていないんだ。)、自分がうまくやれるか、人から悪く思われないかという不安のためだ。

 


 突発的になんの準備もなくスイッチを切るかのように突然死のうと思った瞬間に死ねたら(死んでしまったら)、特別な苦労はないのだけど、残念なことに僕らは死ぬのにだって計画がいる。

 胸をナイフで突き刺して死ぬとして、どのくらいの刃渡りのものを使おうか、とか、飛び降りて高さが足りず中途半端に苦しんだらどうしようとか、次から次へと疑問や不安が湧いてくる。死ぬのだって楽じゃない。死んだら楽になれるかもしれないけど、人間思いのほか頑丈にできていて、死ぬ手続きを完遂するのも煩雑で体力がいる。

 そのおかげで毎年何万人もの人が助かってる。自慢するわけじゃないけど、僕もその一人だと思う。その一方で煩雑な手続きをやり遂げて、実際に死んでしまう人もいる。非常に悲しい。それほどに絶望や不安は根が深く、大きく、強い。

  くり返すけど、仮に死ぬと決めてもそれで一気に楽になるわけじゃない。死ぬ際にも不安や絶望がついて回る。

 死にたい原因のつらさと、死ぬ際の不安あ絶望のあいだで板挟みになるのも非常につらい。とてつもなくつらい。

 それでも、それは非常に、結果的には良いことだとも思う。何にもやりたくない人がふらっと行動に起こせるほど、死ぬのは簡単じゃなく、その簡単じゃなさにぼくの命は救われてきたからだ。

僕のことばは人に通じない。考えて考えて、もうはち切れるくらい考えて、考えすぎるからまとまらないのに、人には考えなしのバカだと思われていて、それも悲しい。

 行動に起こせないことの辛さや苦しみを「やる気を出せ」のひとことで片付けられてしまうのも非常に不服だ。

 でも簡単に死ねなくてよかった。そういう人は、この世界にたくさん住んでるだろう。きっと。

 人から優しくされると苦しかったり、心配されると申し訳なかったりする。この矛盾めいた感情に罪悪感を持ったりする。

「ああ、なんてわたしは素直じゃないんだろう。」

「人の善意を受け取れないなんて、どうしてこんなにダメなんだろう。」

 坂口恭平は、反省するのをストップしてみよう、と言う。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74319