ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

展覧会と性欲と、絵画の一回性と空についての日記

 なにもないところから歌を始めるように、なにもないところから文章を書きはじめよう。

 今日は神保町で友達とあそんだ。ピーター・ドイグ展をみて、それから古着をみて、パスタを食べ、カフェでゆっくりと話した。ぼくは友達が相手でも性欲が湧く。同性にも場合によっては湧くかもしれない。性欲と、近づきたいという気持ちはほとんど一緒で、だから、人との距離が異常にちかい。

 ぼくは文章を書きながら、考えたいことを考えてる。自分が考えたいことの輪郭が掴めれば、言葉をつかい思考を展開していくことになるので、文章の道標はできる。

 このあいだ、とある大学のアンケートに答えた。心理学のアンケートで、恋愛観を問う、というようなものだった。

 非常に答えづらい文章で、たとえば、「あなたは自分が誰かのことを愛するほど、その相手は自分のことを愛してくれないことに不満を持つひとですか?」みたいな聞き方をしてくる。答えづらいけど、答えた。胸がいたかったから。

 「自分が誰かのことを好きになるほど、相手は自分から離れていくとおもいますか?」という質問がいたかったから。

 まあ日記とはこんなメンヘラみたいなわかってほしい系文章を書くところではない。

 ピーター・ドイグが展覧会の絵の配置を空間全体の色を見て決めていた、という話を聞いたとき、空間とは、活動し、見る時系列を含んだぜんたいであるので、空間を考えるとは時間芸術的、つまり音楽的な考え方だなと感じた。

 そこでは音楽のアルバムの曲順のように、どのような順番でその絵が観覧者の網膜に飛び込むかということが問題になっている。

 ピーター・ドイグはいまも生きている作家だ。つまりは現代の作家で、複製されることを前提に芸術活動をしている作家だ。

 複製された絵画の一回性、オリジナリティはどこにあるのか、とおそらくいろんな人が考えてきただろう。絵画の一回性についても考えた。僕は、それはあまねくすべての瞬間にあると思う。

 ぼくらの感覚器官は、外部と、ぼくらの認識との間にある差異を感知するセンサーか、壁のようになっている。

 ぼくらの認識は自分の体調やセンサーの(網膜なら網膜の)性質によって異なった反応を見せる。ぼくの見ている赤色は誰かの見る青色かもしれない。酷く単純なクオリアの理解だけど、そうだとするなら、ぼくらの体が一瞬一瞬変わり続けている以上、同じ認識は二度とあり得ず、次の瞬間見た絵はさっき見ていた絵と違う絵であると言えるかもしれない。

 また、絵の側や会場のパラメーターも変数として存在する。珍しく借りた音声ガイドによると、ピーター・ドイグ展の照明はLED電球らしい。ハロゲンとは違い、光が直線的に降りてくるのだという。

 認識のなかで絵画は揺れ動く。絵画の「物自体」もまたさまざまな変数で揺れ動く。おそろしいほどに無限の変化を世界は見せてくれる。それを今日まで忘れていた。同じ空や同じ水は一瞬たりともなく、また一瞬たりとも同じでない水や空はどれだけ変わっても水や空であり続ける。

 だとすれば、死んだとしても居続ける、という命題は、論理学的には破綻しているが、現実をみるかぎり成立するようにみえる。『君がいないことは/君がいることだな』とサニーデイ・サービスは歌う。この理屈だってストン、と受け入れられる。

 そしてこの論理を超越した存在の両義性は仏教の「空」の思想とも通じる。

 ゆく川の流れは絶えずして、というやつだ。ぼくは、頭でっかちなおとこだ。