ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

眠れない夜からはじまる一日の日記

 ブコウスキーの小説を読んで、自分の小説を読んだ。ブコウスキーの小説は笑っちゃったり妙な気分になったりしたんだけどぼくのはあんまり面白くなかった。

 そんなもんだろうとおもって、AVを見た。午前一時のこと。AVは笑える。真剣なものほど滑稽だ。どうしてだろう。ぼくはマジメな顔をしてふざけたことを言う人が好きだ。最近だとカズレーザーとか、かまいたちの山内とか。ぼくの小説はマジメだけど、中途半端にマジメで滑稽になりきってない。というか、マジメに滑稽をやれてない感じがする。滑稽に見えるくらいマジメならいいけど。

 『私も39歳になった。ゲリラ戦士としての自分の将来を考えねばならぬ年齢に、いやおうなく近づいている。今のところ「完全」である。』

(チェ・ゲバラ著 真木嘉徳訳 『ゲバラ日記』中公文庫)

 「この世界はつまんねぇよなぁ」と思う。その思いを忘れていた気がする。いや忘れてなんかいない。ふとした時に思い出す。「社会はつらいことばっかりだ」みたいなことをおもって絶望する昨日の午後三時、ぼくは不良にもなれず、かといって優等生にもなれないまま生きてきた。

 自分や世界はもっと輝いているはずで、その証拠にむかしのぼくたち、例えば幼稚園時代とか小学校時代とか、言い知れぬ幸福を味わっていたはずだ。

 ぼくはその謎の幸福を感じていた時代をエデンの園のようだと思う。第二次性徴期とともに僕らは他者の視線を内面化することでエデンの園を失ったのではないか。まあ、こんなのは既存の図式に当てはめただけの言葉遊びにすぎない。

 虐待を受けた子どもや、いじめを受けた子どもは不幸だ。しかし僕らは幸福を知っている。おそらく、虐待を受けている子どもだって幸福を知っている。その幸福の知識はきっとアプリオリに人間に内面化されていて、それはきっと胎内記憶なのか、もしくは魂のようなものに宿るのか、それはわからないけど、少なくとも幸福や安寧を僕らは生まれたときから知っているはずだ。

 では、言い知れぬ幸福をぼくらはどう扱うのだろうか。失ってしまう。意識的に捨てるのではない。失ってしまった輝きがそこにはある。世界は本質的にはもとから輝いていた、はずだ。生まれてから成長する過程でそれをきっと失う。だから僕らは生きててこんなにもつらい。

 深夜三時に、至ってマジメに考えた。笑ってもらえたら最高だ。

 朝6時まで眠れず、宮台真司著『終わりなき日常を生きろ』を読んでいた。

 それから学校に行って、9時。出し忘れていた書類を提出する。寝てないから、学校で寝る。坂口恭平の師匠だという路上生活者の人が言っていた、公園や土地を使わせてもらう感覚。

 学校のソファーは硬めのベッドのように少しだけスプリングがあって眠りやすい。

 12:30に起きる。学校で目が覚める。食堂に行って人を探す。誰もいない。ぼくは用事があって帰れないので、誰かがいないといやだ。一人はいやだった。

 図書館に行き、楽譜を借りる。もう一回寝ようかなあ、と思うと友達を見つけたから、偶然を装って近づく。

 話をして、そしたら友達が集まってくる。ぼくは集まってきた別の友達と一緒に勉強することにする。人と人の間を漂っている、ピンポン玉みたいなわたし。

 コミュニケーション少し、うまくなったかな。

 最果タヒのインタビューを聞いた。わかりやすい言葉に寄らないでいいんだって、思えるかな。

 詩は読んだ瞬間に起こる。そんな感じがする。読んだ人間が関わることで初めて完結する文章。わかんないことから。相手がどうとってくれてもいい。わかりやすくないことが重要だっていうのは、素敵だな、でも、と思う。