ケーカク的しつけ

フェレットのしつけの日記を書くケーカク

満足した日の日記

 ひとつの達成が、ふたつ。俺の問題は結局歌と女の子で、今日はデートがうまくいって、レッスンもうまくいって、めずらしく満足してみようと思えた。

 満足した状態は本当にめずらしい。他に何も求めなくていいと、脳が判断したということだ。ほかに何も求めなくていいから、不安もない。手に入れられないのではないかという不安がない。

 不安がない。こんな状態はじめてかもしれない。おそらくは、筋トレと過度な発声による一種の超興奮状態なのだと思う。

 いつも自分のなかに声を上げてやることなすことにツッコミを入れるヤツがいる。そいつが黙ったことは、人生で一度しかなかった。向精神薬を飲んだ時だけだった。凪のような状態になるのだ。心が凪いで、波風が立たない。そのときに似ている部分もあるし、似てない部分もある。

 声はいつも無限の駆動力を持っていて、指先を通じてスマホに打つのが追いつかないのだけど、今日は違う。声を聞こうとすれば聞こえる。けれど、放っておけば黙ってる。いつもは際限なくしている自己主張も、今日だけは鳴りを潜めてる。こんなのははじめてだ。

 声が聞こえないなら、書けないのではないか、という不安もない。かまってやれば、言葉はでてくるということをぼくは知ってる。この声も知ってる。いつまで知ってるのだろうか。そもそも日記とはこういうものを書くところなのだろうか。日記とは何かを問い続ける日記。キャッチコピーができてしまった。

 言葉は泉のように、湧き出てくる。今までは洪水、今は汲みに行く。不思議だ。

 坂口恭平は、「頭のなかが砂漠だ」と感じたとき、その砂漠をそのまま文字にすることで『現実宿り』という小説を書いた。書いたというか、頭のなかの砂漠が文字になったとき、それを受け入れる器が小説しかなかったということなんだろう。

 ぼくの頭は凪いでいるけど、決して砂漠じゃない。泉というのも比喩で、実際にそれが見えるわけじゃない。実際のところは、ネットワークのようなものなのか?いや、おそらく、日記じゃない方のブログの最初に見えた水面のイメージなんだと思う。

 平面に、真っ直ぐに見えるほど遠い水平線の上を、まるでサザエさんのEDのような影がゆっくりと進行してる。あれは隊商だろうか?この推察はきっとたまの『らんちう』に影響を受けてる。

 『らんちう』のことばを借りると、景色は真っ赤っかに腫れちゃった、というような感じだ。つまり夕暮れだ。太陽のまんまえに、影たちはいて、歩いてる。正確にいえば真っ赤っかではない。オレンジと黒の濃淡がかかっていて、濃い影がちらほら見える。グラデーションしている夕陽は水面に無限に反射していくつもの波紋のうえに影を落としていた。

 ここに、鳥でも飛べばいいと思ったら、カモメが飛んだ。ぼくの頭のなかだから、ぼくの命令は聞いてくれる。

 ぼくの足元は水面だ。ひとつだけ言えるのは、影たちの足元にも水面が広がっているということ。彼らの足が一歩前に動くたびに波紋が生まれ、それは連鎖して波は打ち消しあい、合流しあい、それにしたがって夕陽は揺れ、影のグラデーションが変わる。

 夕陽は、気づけばもう水面のほぼすれすれのところまで降り、紫色の空が、夕陽を覆っている。星が、やけに綺麗だ。こんなに綺麗なのは山の上からしか見たことがないから、ぼくはここが山の上だと、少しだけ思った。

 山の上にいると、地球が丸いのだとなんとなくわかる気がする。平面に見える水平線もきっとゆるやかな、非常にゆるやかなカーブの一部であり、僕の立つ地面もまたゆるやかなカーブの一部であり、角がない?すべては連続するものの一部である。そう言ってしまえれば少しはロマンティックなのだが、実際のところはそんなにわかりやすい世界理解では到達し得ない何かがあるのだろう。地球には。

 ラクダの背中のような影が見える。ぼくがラクダを見たがっているから、あれはラクダのようなんだろうか。手綱を引く男の顔は下を向いていて、疲れてるのかもしれない。水を見ているのかもしれない。

 『チェ・ゲバラ日記』に、行軍の途中で馬を殺して食べる場面がでてくる。それはきっと凄まじい場面であり、また長い行軍を共にした馬を食べるのだからドラマティックでもあり、しかしそれがサラッと一行で、今日は馬を食べたなどと書いてあって、そのなんでもなさに感じる感情はいったいなんなのだろうか。

 もったいない!でも、そんなひどいことを!でもない。

 そもそも、彼らにとって馬を殺して食べることはそんなに大きな行事じゃないのかもしれない。

 キャラバンのラクダも、人間のお腹が空いたら殺され、食べられるのだろうか。

 人間を「猿」と呼んで、干し肉にしていた『野火』に出てくるあの兵隊たちは、サラッと人を殺したのだろうか。

 命とか食べるということに重みを感じ過ぎているのかもしれない。ぼくは爪を合わせてカチカチ音を鳴らした。陽はもう真っ暗に暮れていて、だから影たちは見えないのだが、進行しているのはわかる。