死を回避するためにダークサイドに堕ちた日記
ダークサイドに堕ちました。きょうを持って僕はダークに生きていきます。かなり闇です。すごい悪です。
教育実習の一日目、いろんな意見を聞いていたんだけど、「やっぱりたのしいよ」とか「結局やってよかったです!」とか。
あれはウソだったんだろうか。少なくとも俺には絶対そうは言えない。初日で何を言いやがると思われるかもしれないけど、僕は理不尽を予想し、ある種期待し、その期待はまさに叶えられたのです。
突然降ってくる仕事、できるわけがないのにやらされる授業、サポートをしてくれそうにない先生、いや、そんなことはない。周りの人に助けられてなんとか生きています。わかっています。しかし問題は死にたくなってしまうことなんです。自分を守らなきゃいけない。
子供たちには、どれだけ礼儀を尽くしても無駄であり、むしろ強引にやったほうが上手くいくのだ、ということに気づきました。
笑顔で接すれば接するほど上手くいかない。普通にやっているだけで笑われて、蔑まれます。丁寧に接するとそれだけ相手は下に見てくる。そこからぼくは、それなら逆に教師とは強制し、押し付ける存在なんじゃないのかと思い、そういう教師がいちばん嫌いなのに、その姿が今いちばん手っ取り早くできるベターな回答なのだと知って、嫌気が差しています。
教員という仕事は意外と芸術に近いのかもしれません。教師と生徒の関係は、教師から生徒への過剰な贈与と過剰な剥奪によって成り立ってるように見えるからです。
昔流行った教師ドラマ『ごくせん』も、不良に対し団結を強制しまた承認や愛を過剰に与え、それによりコミュニティを形成していく物語でした。
芸術の分野は、何らかのことに人を巻き込み、何かをやらせたり、必要以上のものを与える仕事です。そこにあるのは貨幣のような交換制度とは異なる剥奪と贈与の世界です。性愛にとてもよく似ています。政治にもよく似ています。これらはすべて法の外で行われる祭りの原理で動いています。
そして教育もまた、人間を法や制度で縛るのではなくその外を志向する祭りの世界なのです。学校は常時祭り。だから過剰に人間性を剥奪するいじめや、過剰な贈与である時間外労働が発生するんじゃないかと思いました。
まあ、とにかく、俺は俺が嫌いなタイプの人間になろうと思います。本当に変わりたかったら何かを捨てなくてはいけない。ぼくは倫理観をすて、理不尽を生き延びようと思っています。ありのままの自分に絶望しても、それを受け入れない世界に絶望しても、どうしようもないですから。衝突のなかで死なないために、ときには誰かを傷つけることだって、自分を傷つけることだって必要ですね。傷付けられっぱなしでは絶対終わらないぞ、と思ったとき、ぼくはダークサイドに落ちたんです。
教育実習と恥じらいの日記
教育実習生のガイダンスのようなものを受けた。自己紹介で言葉に詰まって、なんだかわからないことをたくさん口走って逃げるように頭を下げて席についたとき、背中を汗が伝っていくのを感じた。こういうときはいつも感じる。自分はもっとできたはずなのに、どう思われているだろうかと思い、心がくるしい。つらくてくるしい、それがぼくのすべてだ。
『伝え方が9割』という本を読んだ。生徒の授業に対する集中力はスピーカーの伝える力に比例すると書いてあり、自分にはできないんじゃないかと思う。
自分は伝えるのも伝えられるのも苦手だ。教育実習で何が必要なのか聞くのを忘れていて、それが今日発覚した。結果的にやることが三倍くらいに増えてしまって、つらいどころの騒ぎではない。騒ぎになってる。ぼくの心のなかで。
何を話しているかがわからないままに話をしていると、どうにもうまくいかなくて、キョトンとしていたらイライラさせてしまった。わからないんだからしょうがないのに。伝えられないし、伝わってもこない。伝え方が9割。でもその前に理解できない人は、どうなるんだろう。0割?
高校に行くと、精神が不安定になる。誰かと関わっていなきゃいけない空間が苦手だ。
友人と会って食事をした。彼はモテるのだけど、すぐに飽きてしまって目移りしては浮気を繰り返すらしい。そのことで本人が悩んでいた。モテるなら良いじゃないかと思うのだけど、人の悩みはそれぞれで面白い。
ことばの使い方と大仏の肌の日記
ことばの使い方ひとつで世界は変わるらしい。ことばの使い方ひとつで世界はかわいくなるらしい。ことばの使い方ひとつで世界は川を越えて、あの世へ行ってしまうらしい。
ぼくは今日、クレンジングオイルを買っていた。薬局のおねえさんは、不審がった。
耳鳴りがするのでおれは素敵だろう?と叫んだら、すごく大きな声でこちらを否定してくるので喚くな喚くなと笑いながら、殴りかかりたくなった。
クレンジングオイルは二個入りで3520円だった。ぼくは一個入りで十分だったんだけど、レジまで来て1600円くらいをケチる男だって思われたくなかったから、ぴったり3520円、支払った。
見栄を張った。こういうプライドは捨てていいんじゃないだろうか。ここで、いや、ごめんなさいって言える人のほうがなんとなく良い感じがする。
悟りの境地とはどんなものなんだろう、こういう見栄もなくなって、見栄を気にする心もなくなって、クレンジングする必要がないくらいお肌が綺麗になるんだろうか。ストレスなさそうだもんね。肌も荒れないよね。
大仏の肌がブツブツなのを見たことがないから、きっとそうなんだろう。
自閉の日記
今日も十六時に起きた。最近は十時間以上の睡眠はデフォルトになっているみたいだ。
だから今日はなにもしてない。思い出せないが、歌を歌っていた。
妙な夢をみた。行ったことのない京都のホテルに夜泊まって、それから行ったことのない路地裏にある寂れた旅館のマッサージを受けに出かける夢だった。
古本屋のように棚がいくつも並べられているフロントの、棚の間にカウンターが見えた。
カウンターの向こうには30代くらいの若い男が一人座っていて、彼の後ろには宿泊料金表が貼ってある。一番高いコースで朝晩のご飯がついて9,800円。素泊まり2300円。マッサージはなぜだか二十分刻みで値段が上がっていく方式らしい。ツイッターでここが良いって聞いてきたんだけど、本当に大丈夫だろうか、と思っていた。夢のなかで。
あまり良いマッサージ屋さんじゃないところはなぜ二十分単位で値段が上がっていくのだろうか。二十分で完結するものが、日々無限に広がる時間のなかで蓄積された疲れを取れるんだろうか。
千葉雅也が、一、二年なんにも書かない期間が欲しいと言っていた。実際そうなったら彼はたぶん書くんじゃないかと思うけど(知らないけど)、疲れてるんだなあと思った。
疲れると長い時間の休みが欲しくなる。実際に長い休みが訪れると、意外なことに退屈しないで過ごせてしまう。時間を使うのが上手くなったというか、違和感なく過ごすのが上手くなったのかもしれない。自粛期間は一切苦じゃなかった。
休む必要がある。ときどき、進捗を無視して時を浪費する必要があると千葉雅也は言うけど、その通りだと思う。理想的に効率的に毎日同じように、なんてできない。しかし休むのに罪悪感のようなものを感じる心を止めたい。心のノーモーションの動きだが、この瞬間に未来や過去を想起しているんだろう。それで苦しくなるんだろう。自閉、自閉と唱えてみた。自分を閉ざす、負のオーラを発する、そういう時間も必要だ。
漠然とした不安の日記
落ちているセミの羽と枯れ葉の違いが見分けられない季節になってきた。
昨日買えなかったモバイルバッテリーを買って、これからヴィットリオ・グリゴーロのチケットの支払いをする。
11月28日土曜日、サントリーホール。学生席がまだ残っていたから、学生は行ったほうがいい。世界的なパフォーマーの舞台は、例えジャンルが違っていても絶対に楽しいからね。新自由主義的な言い方をすれば、あらたな発見があるし成長できる。そんなものは実際なくてもいいんだけどね。発見や成長や、楽しみを求めるひとはぜひ。
マスクをしろ、とは言われるが、マスクが必要なほどの人混みはあまりない。
電車、会社、学校、何らかの会場であれば必要かもしれないけど、街を歩くぶんには必要ない。でも街ですれ違うひとはみんなマスクをしている。ぼくもしてる。誰もいない路地裏で、10メートルの距離を開けて、マスクをした男二人がすれちがう。
セミが死んでいるのをよく見る。やっぱる造形はキモチワルイ。でもぼくらは毎年、このキモチワルイ奴の声に包まれて生活しているわけで、セミはキモチワルイし、セミの声も目の前で鳴くのを見てたらやっぱりキモチワルイのだけど、公園とかで大合唱に包まれてしまうと自然という感じがして許せる。それどころか風情を感じたりもする。
坂口恭平の個展を見に行った。
家に帰るまでの間に、メディアで出会う人間と実際に出会う人間の違いについて考えた。
それから帰宅して、歌を歌うが、うまくいかない。体の具合が如実に現れるのだ。ダンベルの重量を少し重くすると、そのぶん筋肉が増え、その筋肉の量に応じて呼気圧と声門下圧のバランスを考えなければいけない。もっと器用になれるのかもしれないけど、今は地道にやらないとうまくいかないし、地道にやってもうまくいかない。
漠然とした不安から逃れるためには忘れるか眠るかしかない。宮台真司は、人間が変わるための行動を起こすためには、強制か、限りなく大きな動機付けが必要だと言っていた。動機付けはとてもむずかしい。すごいエネルギーが必要だ。しかも、なんだって手をつけると欲望と不安が出てきて、どうしようもなくなる。何かをしつつ、欲望と不安に飲み込まれない方法を探しつつ、今日も一歩ずついろんなことが上手くなっていく。上手くなるたびに不安も増えていく。
語りかけてくる日記
いつもいつも、不安がない。これは〜だ。みたいな文章書いていて、何様かと、論文かと思ったので今日は語りかけるような口調で日記を書いていきたいと思います。
とはいえ今日はほとんど何もないと言っていい1日でした。人生にはこういう日が必要なのかもしれませんね。ひとやすみ、とよく言いますが何もない1日なのでやすみですらありません。それなりに動きました。ただ、印象として何もない1日だったんです。
16:00に起床しました。この時点で何かが破綻していますね。SFとかに出てくる急成長させられた赤児みたいな気分でした。彼らは気づいたときに人生が半分終わってるんだけど、俺は起きたとき1日が半分終わっています。
『永久も半ばを過ぎて』というタイトルがありましたが、素敵ですね。ロマンチックで。永遠の半分ってどのくらいなんだろう。1日の半分は12時間です。
それから指導案を完成させて、食事をして、本を返しに行き、、、、そのくらいのことは思い出せます。
ただ、どんな感情だったか、何を考えたか、そうした記憶が、一切、ないんです。
手続き記憶は覚えていますが、エピソード記憶がないんです。一つだけあります。自転車乗り入れ禁止の区間に一瞬だけ立ち入ってしまいました。記憶力がショボければ罪もショボい。善良な人間です。
複雑なことを考えない1日もあるということ。短い人生なのに無為な時間があっていいのか、とか、何も成し遂げないなんて生きている感じがしないじゃないか、と仰るひともいるかもしれません。(実際にそういうひとはあんまりいないのですが、心の声はよくこういうことを言ってきます。)でもいいんです。良く生きようと悪く生きようとその瞬間の自分にはそうするしかないのですから。
いいこと風なことは言えますね。知性とは複雑なものを複雑なままに理解できる能力のことを言う、とどこかで見ました。
いいこと風なメッセージには必ずどこかで強引な単純化があるので、自分がそれをしていないか、納得した文章にそういう単純化がないか、ある場合はどう工夫して発信したり受信したりするか、気をつけて生きています。
むずかしいね。でも大丈夫たのしいから。おやすみ。熱中症に気をつけてね。
満足した日の日記
ひとつの達成が、ふたつ。俺の問題は結局歌と女の子で、今日はデートがうまくいって、レッスンもうまくいって、めずらしく満足してみようと思えた。
満足した状態は本当にめずらしい。他に何も求めなくていいと、脳が判断したということだ。ほかに何も求めなくていいから、不安もない。手に入れられないのではないかという不安がない。
不安がない。こんな状態はじめてかもしれない。おそらくは、筋トレと過度な発声による一種の超興奮状態なのだと思う。
いつも自分のなかに声を上げてやることなすことにツッコミを入れるヤツがいる。そいつが黙ったことは、人生で一度しかなかった。向精神薬を飲んだ時だけだった。凪のような状態になるのだ。心が凪いで、波風が立たない。そのときに似ている部分もあるし、似てない部分もある。
声はいつも無限の駆動力を持っていて、指先を通じてスマホに打つのが追いつかないのだけど、今日は違う。声を聞こうとすれば聞こえる。けれど、放っておけば黙ってる。いつもは際限なくしている自己主張も、今日だけは鳴りを潜めてる。こんなのははじめてだ。
声が聞こえないなら、書けないのではないか、という不安もない。かまってやれば、言葉はでてくるということをぼくは知ってる。この声も知ってる。いつまで知ってるのだろうか。そもそも日記とはこういうものを書くところなのだろうか。日記とは何かを問い続ける日記。キャッチコピーができてしまった。
言葉は泉のように、湧き出てくる。今までは洪水、今は汲みに行く。不思議だ。
坂口恭平は、「頭のなかが砂漠だ」と感じたとき、その砂漠をそのまま文字にすることで『現実宿り』という小説を書いた。書いたというか、頭のなかの砂漠が文字になったとき、それを受け入れる器が小説しかなかったということなんだろう。
ぼくの頭は凪いでいるけど、決して砂漠じゃない。泉というのも比喩で、実際にそれが見えるわけじゃない。実際のところは、ネットワークのようなものなのか?いや、おそらく、日記じゃない方のブログの最初に見えた水面のイメージなんだと思う。
平面に、真っ直ぐに見えるほど遠い水平線の上を、まるでサザエさんのEDのような影がゆっくりと進行してる。あれは隊商だろうか?この推察はきっとたまの『らんちう』に影響を受けてる。
『らんちう』のことばを借りると、景色は真っ赤っかに腫れちゃった、というような感じだ。つまり夕暮れだ。太陽のまんまえに、影たちはいて、歩いてる。正確にいえば真っ赤っかではない。オレンジと黒の濃淡がかかっていて、濃い影がちらほら見える。グラデーションしている夕陽は水面に無限に反射していくつもの波紋のうえに影を落としていた。
ここに、鳥でも飛べばいいと思ったら、カモメが飛んだ。ぼくの頭のなかだから、ぼくの命令は聞いてくれる。
ぼくの足元は水面だ。ひとつだけ言えるのは、影たちの足元にも水面が広がっているということ。彼らの足が一歩前に動くたびに波紋が生まれ、それは連鎖して波は打ち消しあい、合流しあい、それにしたがって夕陽は揺れ、影のグラデーションが変わる。
夕陽は、気づけばもう水面のほぼすれすれのところまで降り、紫色の空が、夕陽を覆っている。星が、やけに綺麗だ。こんなに綺麗なのは山の上からしか見たことがないから、ぼくはここが山の上だと、少しだけ思った。
山の上にいると、地球が丸いのだとなんとなくわかる気がする。平面に見える水平線もきっとゆるやかな、非常にゆるやかなカーブの一部であり、僕の立つ地面もまたゆるやかなカーブの一部であり、角がない?すべては連続するものの一部である。そう言ってしまえれば少しはロマンティックなのだが、実際のところはそんなにわかりやすい世界理解では到達し得ない何かがあるのだろう。地球には。
ラクダの背中のような影が見える。ぼくがラクダを見たがっているから、あれはラクダのようなんだろうか。手綱を引く男の顔は下を向いていて、疲れてるのかもしれない。水を見ているのかもしれない。
『チェ・ゲバラ日記』に、行軍の途中で馬を殺して食べる場面がでてくる。それはきっと凄まじい場面であり、また長い行軍を共にした馬を食べるのだからドラマティックでもあり、しかしそれがサラッと一行で、今日は馬を食べたなどと書いてあって、そのなんでもなさに感じる感情はいったいなんなのだろうか。
もったいない!でも、そんなひどいことを!でもない。
そもそも、彼らにとって馬を殺して食べることはそんなに大きな行事じゃないのかもしれない。
キャラバンのラクダも、人間のお腹が空いたら殺され、食べられるのだろうか。
人間を「猿」と呼んで、干し肉にしていた『野火』に出てくるあの兵隊たちは、サラッと人を殺したのだろうか。
命とか食べるということに重みを感じ過ぎているのかもしれない。ぼくは爪を合わせてカチカチ音を鳴らした。陽はもう真っ暗に暮れていて、だから影たちは見えないのだが、進行しているのはわかる。